特許法の八衢

優先権主張を伴う「実施例補充型」出願について国内優先権の有効性が判断された事案 ― 知財高判令和6年3月26日(令和5年(行ケ)第10057号)

1. はじめに

知財高判令和6年3月26日(令和5年(行ケ)第10057号)は、国内優先権の主張を伴う「実施例補充型」の特許出願について、国内優先権の有効性が問題となった事案である。

本件で対象となった特許出願(本件出願)は、2つの日本出願(優先権出願1[2016年3月31日出願]および優先権出願2[2016年11月25日出願])を基礎とする国内優先権の主張を伴うPCT出願*1が、日本へ国内移行された後、特許権設定登録がなされたものである。

原告は、本件出願に係る特許について、特許無効審判を請求した。紆余曲折あったものの*2、最終的に、特許権者による請求項1等の訂正請求が認められ、また、訂正後の請求項1に係る発明(本件訂正発明1)等について優先権出願1に基づく国内優先権の有効性が認められた結果、請求不成立の審決(本件審決)がなされた。

これに対し、原告が本件審決の取消しを求めて訴訟提起したのが、本件である。
知財高裁は、優先権出願1に基づく国内優先権の有効性を認め、無効不成立審決を維持した。

2. 優先権出願1および本件出願

2-1. 優先権出願1

【請求項1】*3

  • 害虫忌避成分を含む害虫忌避組成物が充填され、前記害虫忌避組成物を噴射する噴口が形成された噴射製品であり、
  • 前記害虫忌避成分は、
    • 3-(N-n-ブチル-N-アセチル)アミノプロピオン酸エチルエステル《引用者注:判決文では「EBAAP」とも称されている》
    • p-メンタン-3,8-ジオール、
    • 1-メチルプロピル 2-(2-ヒドロキシエチル)-1-ピペリジンカルボキシレート《引用者注:判決文では「イカリジン」とも称されている》
    • からなる群から選択される少なくとも1の成分であり、
  • 前記噴口から15cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₁₅と、前記噴口から30cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₃₀との粒子径比(r₃₀/r₁₅)が、0.6以上となるよう調整され、
  • 前記噴口から30cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₃₀が、50μm以上となるよう調整された、

噴射製品。

優先権出願1の明細書記載の【表1】

2-2. 本件出願

【請求項1】《引用者注:本件訂正発明1》

  • 害虫忌避成分を含む害虫忌避組成物が充填され、前記害虫忌避組成物を噴射する噴口が形成された噴射製品(ただし、噴射剤を含む場合を除く)であり、
  • 前記害虫忌避組成物は、20℃での蒸気圧が2.5kPa以下であり、かつ、噴射後の揮発を抑制するための揮発抑制成分(ただし揮発抑制成分がグリセリンである場合を除く)を、害虫忌避組成物中、10質量%以上含み、
  • 前記害虫忌避成分は、
    • 3-(N-n-ブチル-N-アセチル)アミノプロピオン酸エチルエステル《引用者注:「EBAAP」》
    • 1-メチルプロピル 2-(2-ヒドロキシエチル)-1-ピペリジンカルボキシレート《引用者注:「イカリジン」》
    • からなる群から選択される少なくとも1の成分であり、
  • 前記噴口から15cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₁₅と、前記噴口から30cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₃₀との粒子径比(r₃₀/r₁₅)が、0.6以上となるよう調整され、
  • 前記噴口から30cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₃₀が、50μm以上となるよう調整された、

噴射製品。

本件出願の明細書記載の【表1】(赤枠は引用者追記)

2-3. 優先権出願1における「イカリジン」

上記のように、優先権出願1において、クレームでは「EBAAP」のみならず「イカリジン」も記載されているが、実施例には、「イカリジン」についての記載はない。優先権出願2および本件出願において、「イカリジン」についての実施例が追加されたのである(上記本件出願の明細書記載の【表1】の赤枠参照)。

それゆえ、本件出願に係る本件訂正発明1の「イカリジン」部分について、優先権出願1を基礎とする優先権主張の効果が認められるか否かが、本件で大きな争点となった。

3. 知財高裁の判断*4

3-1. 優先権有効性判断の一般論、および、本事案における当てはめ

原告は、本件訂正発明1の要旨となる技術的事項のうち害虫忌避成分を「イカリジン」とする部分に、優先権出願1を基礎とする優先権主張の効果は認められないと主張するため、以下検討する。

特許法41条1項の規定による優先権(国内優先権)の主張を伴う後の出願に係る発明のうち、その国内優先権の主張の基礎とされた先の出願の願書に最初に添付した明細書、特許請求の範囲若しくは実用新案登録請求の範囲又は図面(以下、これらを合わせて「当初明細書等」という。)に記載された発明については、新規性(29条1項)、進歩性(29条2項)等の実体審査に係る規定の適用に当たり、当該後の出願が当該先の出願の時にされたものとみなされる(特許法41条2項)。

そして、国内優先権主張の効果が認められるかどうかについては、後の出願の特許請求の範囲の文言が、先の出願の当初明細書等に記載されたものといえる場合であっても、後の出願の明細書の発明の詳細な説明に、先の出願の当初明細書等に記載されていなかった技術的事項を記載することにより、後の出願の特許請求の範囲に記載された発明の要旨となる技術的事項が、先の出願の当初明細書等に記載された技術的事項の範囲を超えることになる場合は、その超えた部分については優先権主張の効果は認められないと解するのが相当である。

上記……で認定したとおり、優先権出願1の明細書等には……害虫忌避成分として、3-(N-n-ブチル-N-アセチル)アミノプロピオン酸エチルエステル(EBAAP)、p-メンタン-3,8-ジオール、1-メチルプロピル 2-(2-ヒドロキシエチル)-1-ピペリジンカルボキシレート(イカリジン)に共通して、「使用者の鼻や喉等の粘膜を刺激しやすい害虫忌避成分が配合されているにもかかわらず、粘膜への刺激が低減された噴射製品および噴射方法を提供する」という課題を有し、……所定量の揮発抑制成分を添加するなどして、50%平均粒子径r₃₀と粒子径比(r₃₀/r₁₅)がそれぞれ所定の値以上(粒子径比(r₃₀/r₁₅)が0.6以上、50%平均粒子径r₃₀ が50μm以上)となるよう調整することにより、上記課題を解決することが記載されている。

また、前記……のとおり、本件訂正発明1に関する背景技術、課題、解決手段に加えて、発明の効果に関するメカニズムや各構成要件の技術的意義については、本件明細書……に記載されているが、ほぼ同一の記載が、前記……のとおり、優先権出願1の明細書……において記載されていたものといえる。

……また、本件訂正発明1の発明特定事項は、いずれも優先権出願1の特許請求の範囲の請求項1又は2に記載されており、害虫忌避成分としてEBAAPと同様にイカリジンも明記されていたものといえる。

……優先権出願1の明細書等において、実施例として記載されているのは、害虫忌避成分としてEBAAPを含む噴射製品のみであり、害虫忌避成分としてイカリジンを含む噴射製品に係る実施例は、優先権出願2の明細書等(実施例5及び7)により追加されたものであるが、当該実施例は、本件訂正発明1の実施に係る具体例であるとともに、優先権出願1の特許請求の範囲の請求項1又は2に発明特定事項が記載されていた発明の実施に係る具体例を確認的に記載したものと理解できるから、優先権出願1の明細書等に記載された技術的事項との関係において、新たな技術的事項を導入するものとはいえない。

……したがって、本件訂正発明1の要旨となる技術的事項は、イカリジンを含む部分も含めて優先権出願1の明細書等において記載された技術的事項の範囲を超えるものではないから、本件訂正発明1は、害虫忌避成分をイカリジンとする部分についても、優先権出願1に基づく国内優先権主張の効果が認められる。

3-2. 原告主張に対する知財高裁判断

3-2-1. 害虫忌避成分をイカリジンとする部分は優先権出願1出願時点で完成しているかについて

まず、国内優先権主張の効果が認められるかどうかは、前記……の説示のとおり、後の出願の特許請求の範囲の文言が、先の出願の当初明細書等に記載されたものといえる場合であっても、後の出願の明細書の発明の詳細な説明に、先の出願の当初明細書等に記載されていなかった技術的事項を記載することにより、後の出願の特許請求の範囲に記載された発明の要旨となる技術的事項が、先の出願の当初明細書等に記載された技術的事項の範囲を超えることになる場合は、その超えた部分については優先権主張の効果は認められないと解するのが相当である。

この点、優先権出願1の明細書等において、実施例として記載されているのは、害虫忌避成分としてEBAAPを含む噴射製品のみであり、害虫忌避成分としてイカリジンを含む噴射製品に係る実施例自体は、優先権出願2の明細書等(実施例5及び7)により追加されたものであるものの、優先権出願1の特許請求の範囲の請求項1又は2に発明特定事項が記載されていた発明の実施に係る具体例を確認的に記載したものと理解できるから、優先権出願1の明細書等に記載された技術的事項との関係において、新たな技術的事項を導入するものではないことは前記……の判断のとおりである。

そして、前記のとおり、優先権出願1の明細書等には、本件訂正発明1に関する背景技術、課題、解決手段に加えて、発明の効果に関するメカニズムや各構成要件の技術的意義が記載されており、これらはEBAAP、p-メンタン-3,8-ジオール及びイカリジンに共通して適用されることも把握できるものといえる。すなわち、優先権出願1の明細書等には、本件訂正発明1について、害虫忌避成分をイカリジンとする部分を含めて、その技術内容が、当該の技術分野における通常の知識を有する者(当業者)が反復実施して目的とする技術効果を挙げることができる程度にまで具体的・客観的なものとして構成されていると認められる。

これに対し、原告は、EBAAPとイカリジンとは物質として害虫忌避作用があるということのほかには類似性がないこと等により、イカリジンを害虫忌避成分とする場合にEBAAPと同様の結果となるかどうかは判断できず、優先権出願2の出願時にイカリジンに関する実施例を追加することで、初めて実験による技術上の裏付けがされ完成したものであることを主張する。

この点、本件訂正発明1では、害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₃₀が、成分の揮発によって小さくなることを抑制するために、蒸気圧が小さい揮発抑制成分(……)を配合しているところ(……)、一般に、物質の揮発しやすさ(揮発性、揮発度ともいう。)は、その成分の蒸気圧によって決定されるものであり(……)、蒸気圧が小さいものは揮発しにくく、蒸気圧が大きいものは揮発しやすいものであるといえる。……EBAAPとイカリジンの蒸気圧は、揮発抑制成分の蒸気圧や溶剤の蒸気圧に比べて極めて小さいものといえる。これらのことからすると、EBAAPとイカリジンはほとんど揮発しないという点では変わりがないから、両者の蒸気圧の違いは、粒子径比(r₃₀/r₁₅)や50%平均粒子径r₃₀に対して与える影響を無視できるものといえる。そうすると、当業者は、EBAAPとイカリジンの蒸気圧を考慮すると、害虫忌避成分としてEBAAPとイカリジンのいずれを使用しても、害虫忌避成分の揮発による粒子径や粒子径比(r₃₀/r₁₅)への影響は変わらないものと理解できる。

したがって、本件訂正発明1のうち害虫忌避成分をイカリジンとする部分は、少なくとも優先権出願2におけるイカリジンに関する実施例を追加することで、初めて実験による技術上の裏付けがなされ完成したものであるとする原告の主張は採用できない。

3-2-2. 「実施可能であるか」について

前記……の「後の出願の特許請求の範囲に記載された発明の要旨とする技術的事項が、先の出願の当初明細書等に記載された技術的事項を超える」*5ものか否かという判断は、実施例が追加された後の出願の特許請求の範囲に記載された発明が先の出願の当初明細書等の記載事項との関係において実施可能であるかを判断するものと解される。

優先権出願1の明細書等には、EBAAP、p-メンタン-3,8-ジオール又はイカリジンを含む害虫忌避成分について、噴射された粒子が使用者やその周囲の者の鼻や喉等の粘膜を刺激しやすく、その結果、使用者等は、粘膜に違和感を感じたり、咳き込んだりしやすいという問題があることから、使用者の鼻や喉等の粘膜を刺激しやすい害虫忌避成分が配合されているにもかかわらず、粘膜への刺激が低減された噴射製品及び噴射方法を提供することを課題とするものであり、この課題を解決するために、優先権出願1の明細書等に記載された発明は、前記害虫忌避成分を含むものについて、さらに、①噴射後の揮発を抑制するため、20℃での蒸気圧が2.5kPa以下となる揮発抑制成分を、害虫忌避組成物中10質量%以上含み、かつ、②前記噴口から15cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₁₅と、前記噴口から30cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₃₀との粒子径比(r₃₀/r₁₅)が、0.6以上となるよう調整され、③前記噴口から30cm離れた位置における噴射された前記害虫忌避組成物の50%平均粒子径r₃₀が、50μm以上となるよう調整されたという特徴を有するものであることが記載されている。そして、その効果を発揮するメカニズムとして、噴射された害虫忌避剤の中には、皮膚や髪等の適用箇所に付着せずに、適用距離(例えば噴口から15cmの距離)を超えて更に離れた位置(例えば噴口から30cm離れた位置)に到達し、浮遊するものがあり、そのような離れた位置では、粒子径が小さくなるため、粘膜刺激を起こしやすく、害虫忌避組成物中に揮発抑制成分を添加して、適用距離における粒子径だけでなく、それを超えた位置における粒子径にも注意を払い、当該粒子径が小さくなりすぎないよう、50%平均粒子径r₃₀と粒子径比(r₃₀/r₁₅)がそれぞれ所定の値以上(粒子径比(r₃₀/r₁₅)が0.6以上、50%平均粒子径r₃₀が50μm以上)となるよう調整したことが説明されている。

……

以上のことからすると、当業者であれば、優先権出願1の明細書の実施例及び比較例において具体的な製造方法が示されているEBAAPを配合した害虫忌避組成物及び噴射製品と同様にして、イカリジンを配合し、粒子径比(r₃₀/r₁₅)が0.6以上、50%平均粒子径r₃₀が50μm以上を満たす噴射製品を製造することができると解される。

この点、原告は、EBAAPとイカリジンの蒸気圧が異なることを主張しているが、……、EBAAPやイカリジンの蒸気圧の違いは、粒子径比(r₃₀/r₁₅)や50%平均粒子径r₃₀に対して与える影響を無視できるものといえるから、当業者であれば、害虫忌避成分としてEBAAPを含む害虫忌避組成物を充填した噴射製品の実施例と同様にして、過度の試行錯誤を要することなく、イカリジンを含む害虫忌避組成物を作成し、これを充填し、粒子径比(r₃₀/r₁₅)を0.6以上、50%平均粒子径r₃₀ を50μm以上に調整した噴射製品を製造することができるといえ、原告の上記主張は採用できない。

3-2-3. サポート要件違反の主張について

原告は、優先権出願1の明細書にサポート要件違反の発明があったことを前提として、本件訂正発明1が、優先権出願2の明細書等において実施例を補充することによってサポート要件違反を回避したものであると主張するが、優先権主張の効果とサポート要件とは異なる要件の問題であり、優先権出願の明細書等にサポート要件違反の発明があったかという観点を考慮すべきとはいえない。

したがって、優先権出願1の明細書にサポート要件違反の発明があったことを前提として、本件訂正発明1が、優先権出願2の明細書等において実施例を補充することによってサポート要件違反を回避したものという原告の主張は前提において失当である。

4. 優先権主張の効果に関する審査基準および先行裁判例*6

4-1. 審査基準 第V部 第2章 国内優先権*7

後の出願の明細書、特許請求の範囲及び図面が先の出願について補正されたものであると仮定した場合において、その補正がされたことにより、後の出願の請求項に係る発明が、「先の出願の当初明細書等」との関係において、新規事項の追加されたものとなる場合には、国内優先権の主張の効果が認められない。すなわち、当該補正が、請求項に係る発明に、「先の出願の当初明細書等に記載した事項」との関係において、新たな技術的事項を導入するものであった場合には、優先権の主張の効果が認められない。

4-2. 東京高判平成15年10月8日(平成14年(行ケ)第539号)[人工乳首]

後の出願の特許請求の範囲の文言が,先の出願の当初明細書等に記載されたものといえる場合であっても,後の出願の明細書の発明の詳細な説明に,先の出願の当初明細書等に記載されていなかった技術的事項を記載することにより,後の出願の特許請求の範囲に記載された発明の要旨となる技術的事項が,先の出願の当初明細書等に記載された技術的事項の範囲を超えることになる場合には,その超えた部分については優先権主張の効果は認められないというべきである。

……特許法41条2項の適用については,後の出願に係る発明が先の出願の請求項についての補正として提出されたと仮定した場合に,先の出願の当初明細書等に記載した事項の範囲内の補正と認められるか否かを判断して決すべきであるという原告の主張は,それ自体としては,首肯するに足りる。

4-3. 知財高判平成18年11月30日(平成17年(行ケ)第10737号)[殺菌剤]

パリ条約による優先権主張の利益を享受するためには,上記……において判示したとおり,優先権主張の対象である第1国出願に係る出願書類全体から一つの完成した発明が把握される必要がある。また,本願発明は化学物質の発明であるが,化学物質につきパリ条約による優先権主張の利益を享受するためには,第1国出願に係る出願書類において単に化学構造式や製造方法を示して理論上の製造可能性を明らかにしただけでは足りず,当該出願書類全体から当該化学物質が現実に存在することが実際に確認できることを要するものと解するのが相当である。けだし,化学構造式や製造方法を机上で作出することは容易であるが,それだけでは単に理論上の可能性を示唆するにとどまるものであって,現実に製造できることが確認されない限り,実施可能な発明として完成しているものと評価することはできないからである。

4-4. 大阪地判平成20年10月6日(平成18年(ワ)第7760号等)[ケモカイン受容体]

本件基礎出願1の明細書には,ケモカイン受容体88C(CCR5)と結合するケモカイン(リガンド)についての記載がなく,88Cの機能が開示されていないこととなり,産業上の利用可能性ないし実施可能性要件を欠き,また,最初の出願に係る出願書類の全体により本件各発明が明らかにされているということもできない。したがって,本件特許は,本件基礎出願1に基づく優先権を享受することができない。

5. 雑感

優先権の有効性の判断基準として、特許庁(審査基準)は、《新規事項追加(非該当)基準》を採っている(上記4-1)。
実際、本件審決において、特許庁審判部は「国内優先権主張の効果が認められるためには、請求項に係る発明が、優先権主張の基礎とされた出願の出願書類全体に記載した事項との関係において、新たな技術的事項を導⼊するものでない(すなわち、新規事項の追加にあたらない)ことを必要とする。」と述べている。
そして、[人工乳首]東京高判も、この基準を認めていると考えられる(上記4-2)。

他方、別の基準を採用する裁判例もある。
[殺菌剤]知財高判は、基礎出願時点における「実施可能な発明として完成」を要求しており(上記4-3)、
[ケモカイン受容体]大阪地判は、基礎出願時点における「産業上の利用可能性ないし実施可能性要件」の充足*8および(あるいは「または」か?)発明の開示*9を要求している(上記4-4)。

それでは、本事案において、知財高裁はどのような基準を採ったのか。
よく分からない、というのが、私の感想である。

まず、知財高裁は、上記3-1で示したように、「優先権出願1の明細書等に記載された技術的事項との関係において、新たな技術的事項を導入するものとはいえない」(から優先権主張の効果が認められる)と述べている。
「新たな技術的事項を導入」という表現からは、《新規事項追加(非該当)基準》を採ったように読める(知財高大判平成20年5月30日(平成18年(行ケ)第10563号)[ソルダーレジスト]参照)。

しかし、上記3-2-1および3-2-2で示したように、本件において知財高裁は、基礎出願時における発明の完成および実施可能要件充足も、優先権主張効果を認めるための要件として考えているかのような判示もしている。

とくに理解できないのが*10、3-2-2で引用した「「後の出願の特許請求の範囲に記載された発明の要旨とする技術的事項が、先の出願の当初明細書等に記載された技術的事項を超える」ものか否かという判断は、実施例が追加された後の出願の特許請求の範囲に記載された発明が先の出願の当初明細書等の記載事項との関係において実施可能であるかを判断するものと解される。」という部分である。
「後の出願の特許請求の範囲に記載された発明の要旨とする技術的事項が、先の出願の当初明細書等に記載された技術的事項を超える」ものか否かという判断は、上記3-1において、既になされているのである。3-1における判断では、実施可能性については明示的には判断されていない。
そのような中、3-2-2では、「実施可能であるかを判断するものと解される」と知財高裁による要件の解釈を新たに示した上で、3-1で一度行なったはずの、技術的事項を超えるか否かの判断をやり直しているように感じられるのである。
上記3-1で引用した判示と、上記3-2-2で引用した判示と、の関係が理解できない。

加えて疑問なのは、上記3-2-3で「優先権主張の効果とサポート要件とは異なる要件の問題であり、優先権出願の明細書等にサポート要件違反の発明があったかという観点を考慮すべきとはいえない。」と述べている点である。
知財高裁の論理に従えば、「優先権主張の効果と実施可能要件とは異なる要件の問題」とも言えそうである。
事案としては、基礎出願明細書に「発明の効果に関するメカニズムや各構成要件の技術的意義」が記載されており、基礎出願時点でサポート要件も充足していると判断できるものであると考えられ、なにゆえ、サポート要件に関する原告主張を「前提において失当」として実体的判断を示さずに排斥したのか、やや理解に苦しむ*11

このように、本判決における優先権の有効性の判断基準は不分明なのであるが、事案としては、上述したように、基礎出願明細書に「発明の効果に関するメカニズムや各構成要件の技術的意義」が記載され、また、本件訂正発明1の範囲内ではEBAAPとイカリジンとは同様の作用を奏することを基礎出願出願時に当業者が理解していた(と事実認定された)、というものであり、優先権の有効性を認めた結論自体は、妥当だと思われる。

実務上は、優先権主張を伴う「実施例補充型」出願における優先権の有効性判断にあたり、基礎出願明細書等における発明の効果に関するメカニズムの記載や各発明特定事項の技術的意義の記載、および、それら記載が補充された実施例にも適用可能なものか、が重視されることになるのだろう。

更新履歴

  • 2024-04-14 公開

*1:この場合の優先権が、パリ条約による優先権ではなく、国内優先権であることにつき、『特許・実用新案審査基準』第V部 第2章 別添表「特許協力条約に基づく国際出願と優先権との関係」(令和5(2023)年3月22日最終改訂)参照。

*2:本稿では略す。

*3:引用者注:改行等を引用者が追加した。本件出願の請求項1についても同。

*4:引用における強調は引用者による。また、「知財高裁による一般論および本事案における当てはめ」等の項名も引用者による。

*5:引用者注:かぎ括弧が付されているが、これまでの判示からの正確な引用ではない。正確な引用は「後の出願の特許請求の範囲に記載された発明の要旨となる技術的事項が、先の出願の当初明細書等に記載された技術的事項の範囲を超える」となろう。

*6:引用における強調は引用者による。

*7:『特許・実用新案審査基準』第V部 第2章 令和5(2023)年3月22日最終改訂。

*8:「産業上の利用可能性」と「実施可能性要件」の両者を充たす必要があるのか、一方のみの充足でも良いのかは、不明。

*9:サポート要件のことを意味しているのかは、不明。

*10:3-2-1における、発明完成についての判断は、原告主張を受けての“リップサービス”と捉えることも可能かも知れない。

*11:原告主張が「優先権出願1の明細書にサポート要件違反の発明があったことを前提とし」たものであったから、その前提を置くのが誤りということで、「前提において失当」と知財高裁は判断したのかも知れないが。

続続・先使用権についての一考

井関涼子「≪先行公開版≫先使用権の緩やかな認定?―特許権の緩慢な死?」別冊パテント30号(2024年03月29日公開)は、次のように述べる(強調は引用者による)。

先使用発明が特許発明の一部であって、先使用権がその一部にしか及ばない例としては、例えば、先使用に係る実施形式は製法 P による化学物質 S の製造であり、この化学物質 S は新規化合物であるが、その構造や物性は明らかではなく、他の製法も判明していなかった場合が考えられる。この場合、先使用の実施形式に具現されている技術的思想は、化学物質 S の製法 P である。これに対して特許発明のクレームは化学物質 S という物質発明で、明細書に製法 Q が書かれていたという場合、先使用権は、製法 P による化学物質 S のみに及ぶから、製法 Q による製造には、及ばないことになる。明細書に記載の無い製法 R があった場合にも、製法 R による製造に先使用権は及ばない。このようなケースでは、先使用権は特許発明の一部に成立すると考えられる。

私が、先の2つの記事「先使用権についての一考」および「続・先使用権についての一考」で述べたかったことは、ほぼ上記に尽きる*1

しかし、自分の頭の中を整理する意味でも、以下、私の考えを記す。


「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」 という特許発明があり、D成分は微量で A成分+B成分+C成分を安定化させることが発明の詳細な記載に開示されているとして、その出願前から被疑侵害者が成分A+B+Cを含む塗料を製造していたが、実はD成分が偶然0.02質量%混入しており、被疑侵害者はそのことを知らなかった場合に先使用権は成立するか
という設例(本設例)について、私は、次のような状況を想定していた:*2

上記特許発明の特許出願前に、被疑侵害者は、A成分, B成分, C成分を含む塗料が必要となった。このような塗料は世の中に存在しないことから、被疑侵害者がふと思いついた製法Pを試したところ、A成分, B成分, C成分を含む塗料を作ることができた。

被疑侵害者は、その製法Pが進歩性を有するものだとは考えなかったが、A成分, B成分, C成分を含む塗料を事業で利用できように、製法Pを文章化して、塗料を被疑侵害者(社)内の誰もが作れるようにした。

そして、被疑侵害者は、特許出願前から、日本国内の社内施設において、この製法を用いて、塗料を事業のために製造し続けていた。

もっとも、被疑侵害者は、製法Pを行なうと必ず、塗料にD成分が0.02質量%含まれることは認識していなかった。

この場合、被疑侵害者は、特許出願前に《製法P》を「発明」し*3、また、《製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分を含む塗料》*4を「発明」している。

ここで、《製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分を含む塗料》は、実際には、《製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.02質量%である、塗料》ではあるが、発明が完成しているか否かを考えるに当たり、発明者がD成分の存在を認識している必要はない。

反復実施可能な製法Pを見出させれば、「発明」が完成しているとして十分であり、〈なぜ製法PによりA成分, B成分, C成分を含む塗料を作ることができるのか?〉といったメカニズム(本設例では「製法Pによって導入されるD成分がA成分+B成分+C成分の安定化に寄与する」)の解明までは特許法上の「発明」に求められていないからである*5

もちろん、メカニズムの解明した者は、より“広い”「発明」をなしたと言える場合が多い。とくに、物質特許を認める現行特許法は、新規物質(本設例では「A成分, B成分, C成分を含む塗料」)の構造(本設例では「D成分を微量含む」)を解明した者には、製造方法を問わず新規物質“全体”について独占できるという特典を与えている。しかし、メカニズムや物質構造を解明していない者に対しても、特許法は一定の範囲では独占権を与えている。

ここで、弁理士X「先使用権のあれこれ」(2024) は、

しかし、D成分の存在を「認識」せずに、「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.02質量%である、塗料。」という発明をすることはできるのか。
そして、「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.02質量%である、塗料。」という発明を他人に知得させることはできるのか。

と述べるが、「できる」というのが、私の回答である。
ただし、「製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.02質量%である、塗料。」という限定のある発明ではある。


以上を踏まえると、少なくとも、《製法P》および《製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.02質量%である、塗料》については、先使用権が認められる、と考えるべきである*6

そして、この解釈は、特許法79条の条文とも齟齬しない。

「特許出願に係る発明の内容を知らないで自らその発明をし」という条文において、「特許出願に係る発明の内容」が《A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料》に当たり、「その発明」が《製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.02質量%である、塗料》に当たる。
さらに、《製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.02質量%である、塗料》は、《A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料》の下位概念である*7から、「その発明」は「特許出願に係る発明の内容」に含まれる*8


ちなみに、高部眞規子「≪先行公開版≫判例からみた先使用権―主張立証責任を中心に―」別冊パテント30号(2024年03月29日公開)も、次のように「対象製品の技術的仕様を備えた製品が反復継続して製造されていた場合」は先使用権が認められると述べていることから、本設例において、被疑侵害者の認識がなくても、被疑侵害者の製造する塗料に常にD成分が0.02質量%含まれていた場合は、先使用権の成立を認める見解であるように思われる。

前掲知財高判平成 30・4・4*9 を根拠に、数値が技術的意義を有するものと先使用者が認識している必要があるとする判例評釈もあるが、同判決は、認識まで要求したつもりではなかったし、そのような判示はしていない。実務的にみても、技術的思想の創作としての発明の完成について、発明者の主観を問うことは、裁判実務上困難であるから、客観的には、発明の内容や事業が一義的に確定していることによって発明の完成(及び事業の準備)を認定すべきである。すなわち、先使用者に直接かつ明確な認識があるとはいえない場合でも、対象製品の技術的仕様を備えた製品が反復継続して製造されていた場合には、特許発明が開示する事項を一定に管理されていたということができるから、特許出願の前に対象製品の技術的仕様が確定しており、当該仕様に基づいて対象製品を製造等していたことを示すことによって、特許発明が開示した事項も一定に管理されていたことを証することができる。数値限定発明の場合も、製法や仕様が管理され、全てのロットで数値限定発明の数値を充たすという客観的な状況があれば、実施者がこれを明確に意識しなかった場合であっても、公平の観点から先使用権を認めることができよう。
[強調引用者;脚注略]


最後に、『そーとく日記』2024年03月29日記事の2つの設例に言及したい。

当該記事でも「クレームの範囲の物を製造する方法について、第三者が実施可能なように伝授できるような発明をしているとは言い難いが、それでもなお、クレームの範囲の物を製造する発明をしたと言えなくはないか・・」と書かれているように、
「第三者が実施可能」か否かが、被疑侵害者が発明をなしているか、ひいては先使用権を認められるかの分水嶺だと、私は考える。

設例1では、「どこからか完成済みの製造機械(一点もの)を入手して」(強調引用者)と書かれているので、当該「製造機械」を第三者に特定可能なように示すことは困難なように思われる。

他方、設例2では、「不純物が含まれた原料」の型番などを特定できれば(そして、その型番の原料を用いて“それなりの”確率で*10A成分, B成分, C成分を含む塗料ができるのであれば)、〈型番XXXの原料を用いて○○工程を行ない、……△△工程を行なう、A成分, B成分, C成分を含む塗料の製法〉という発明がなされた。と言える場合もあるのではなかろうか。そして、型番XXXの原料を用いた塗料の製造については、先使用権が成立させてもよいのではなかろうか。

なお、『そーとく日記』上記記事は、「私としては、自由の尊重というか、「何人も自身の実施が後から出願した者により阻まれることはない」と思いたいので、先使用権の成立に、「侵害し続けられるように」自らの実施を管理していること、すなわち、先使用者の実施内容に摂動(攪乱)を加えてもクレームの範囲の物を作り続けられるように実施されている必要はない」と述べているため、私よりも緩やかに先使用権の成立を認める見解のようである。

更新履歴

  • 2024-03-30 公開

*1:ただし、状況によっては、製法P以外への実施形式の変更が認められる場合がありうる、とは考えている。

*2:「続・先使用権についての一考」に書いた「ケース3」(表現等を若干修正した)。

*3:なお、製法Pが文章化がされておらずとも、製法Pが反復して実施可能な状態にあれば、発明がなされている、と考えるべきである。

*4:プロダクト・バイ・プロセス・クレームについて、最高裁は製法限定説ではなく物同一説を採ったため、物クレームとして書くならば、「製法Pで作られた、A成分, B成分, C成分を含む塗料(製法P以外で作られた物を除く)。」といった形式となろう(この形式であれば、明確性要件を充足すると思われる)が、本稿では「(製法P以外で作られた物を除く)」との記載は省く。

*5:それを示すものの一つが、プロダクト・バイ・プロセス・クレームが認められていることである。

*6:塗料のみならず、製法Pについても先使用権を認めないと、製法Pの実施は特許発明の「生産」となるため、製法Pを行なったら特許権侵害となってしまう。

*7:製法Pも下位概念と考えられよう。

*8:「先使用権についての一考」において記したように、最二小判昭和61年10月3日(昭和61年(オ)第454号) 民集40巻6号1068頁は「実施形式に具現された発明が特許発明の一部にしか相当しないときは、先使用権の効力は当該特許発明の当該一部にしか及ばない」と述べ、被疑侵害者のなした「発明」が特許発明の一部にしか当たらない場合も、(その範囲では)先使用権が認めている。

*9:引用者注:論者が裁判長をつとめた、平成29年(ネ)第10090号事件。

*10:最小三判 平成12年2月29日(平成10年(行ツ)第19号)民集54巻2号709頁は、「反復可能性」に高確率であることを求めていない。

続・先使用権についての一考

はじめに

先使用権について述べた、先の記事を補足するため、次の3つのケースにおいて、
「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」という特許発明に係る特許権Xを、
《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》を実施する被疑侵害者へ、権利行使できるか、考えてみたい。

ケース1

特許権Xの特許出願前に、被疑侵害者は、A成分, B成分, C成分を含む塗料を製造することが難しいことを認識した上、試行錯誤の末、独自に、その塗料の製法を見出した。

被疑侵害者は、この製法は社会にとって役立つと考えたため、特許権Xの特許出願前に、「A成分, B成分, C成分を含む塗料の製法」として論文公表していた。この論文には、第三者の実施可能な形で当該製法が掲載されていた。

そして、被疑侵害者は、この製法を用いて、塗料を事業のために製造し続けていた。

被疑侵害者は認識していなかったが、当該製法を用いると必ず、D成分が0.02質量%含まれる塗料(A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料)が製造されるのであった。

このケースにおいて、被疑侵害者への権利行使を許すべきではない。被疑侵害者は、パブリックドメインにあった製法を実施したに過ぎないからである。

さらに言えば、パブリックドメインにあった製法を実施すれば必ず、《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》が生まれるのであるから、《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》自体も、パブリックドメインにあったと言える。
したがって、特許権Xの特許発明「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」は、パブリックドメインにあるものが含まれるため、その特許には新規性欠如の無効理由がある。

ケース2

特許権Xの特許出願前に、被疑侵害者は、A成分, B成分, C成分を含む塗料を製造することが難しいことを認識した上で、試行錯誤の末、独自に、その塗料の製法を見出した。

被疑侵害者は、当該製法は自社にとって重要なものと考え、その製法を公開せずにノウハウとして秘匿することを選択した。さらに、被疑侵害者は、当該製法について第三者が後から特許権を取得した場合に、先使用権を主張できるよう、その製法を第三者が実施可能な程度に記載した文書を作成し、特許権Xの特許出願前に、確定日付を取得した。

そして、被疑侵害者は、特許権Xの特許出願前から、日本国内の社内施設において、この製法を用いて、塗料を事業のために製造し続けていた。もっとも、被疑侵害者は、この製法を行なうと必ず、塗料にD成分が0.02質量%含まれることは認識していなかった。

このケースにおいて、被疑侵害者は、《A成分, B成分, C成分を含む塗料》(詳細には《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》)の製法を、独自に「発明」し、その発明の実施である事業を、特許権Xの特許出願の際現にしていた、というべきである。

してみれば、被疑侵害者の認識に拘わらず、被疑侵害者は、被疑侵害者が「発明」した製法により作られた塗料、すなわち、被疑侵害者が「発明」した製法により作られた《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》自体も「発明」し、その発明の実施である事業を、特許権Xの特許出願の際現にしていた、といえる。

そして、この「発明」は、特許権Xに係る特許発明「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」に含まれるものである。このことは、被疑侵害者が、この製法について、ノウハウ秘匿の代わりに、論文公表あるいは特許出願を選択していたならば、ケース1で述べたように、特許権Xに係る特許には無効理由がある*1ことから、理解できよう。

したがって、少なくとも、被疑侵害者が「発明」した(製法により作られた)《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》については、被疑侵害者に先使用権を認められる、と解さなければならない*2

ケース3

特許権Xの特許出願前に、被疑侵害者は、A成分, B成分, C成分を含む塗料が必要となった。このような塗料は世の中に存在しないことから、被疑侵害者がふと思いついた製法を試したところ、A成分, B成分, C成分を含む塗料を作ることができた。

被疑侵害者は、その製法が特許に値するものだとは考えなかったが、A成分, B成分, C成分を含む塗料を事業で利用できように、その製法を文章化して、塗料を被疑侵害者(社)内の誰もが作れるようにした。

そして、被疑侵害者は、特許権Xの特許出願前から、日本国内の社内施設において、この製法を用いて、塗料を事業のために製造し続けていた。もっとも、被疑侵害者は、この製法を行なうと必ず、塗料にD成分が0.02質量%含まれることは認識していなかった。

ケース2で先使用権が認められると考えるならば、このケース3で先使用権が認められるか否かは、製法を文章化したものを読んだ第三者がその製法が実施できたか否かに依る、と考えられる。

製法を文章化したものを読んだ第三者が、その製法を再現できるならば、当該製法は「発明」として完成していたと言え、ケース2と同様だからである。そして、被疑侵害者がこの塗料を用いた事業を継続実施していたならば、第三者にも理解できる程度に、その製法が文章化されていることが多いのではなかろうか。

まとめに代えて

私は、先の記事において、無意識に上記のことを踏まえ、被疑侵害者に先使用が認められる、と結論していた。

本記事は、無意識に行なった自己の思考過程の一端を、文章の形にすることで、明確化したものである。

2024-03-26追記

ありがたいことに、『そーとく日記』2024年03月26日記事で、本稿が採り上げられた。ただし、やや誤解があるようにも見受けられるため、以下、『そーとく日記』上記記事を引用しつつ、若干の補足を加えたい。結論を言えば、私は『そーとく日記』にほぼ全面的に同意している。

田中先生の3月24日の論考では、「ケース1」が先使用者が自らの製法を論文として公表していた場合、「ケース2」は自らの製法について第三者が実施可能な程度に詳細な文書を作成して確定日付を取得していた場合、「ケース3」が製法を社内で文章化していた場合で、いずれも先使用権は成立すべきだと論じられている。 先使用者の製法発明を客観的に認定できるかという論点をなくすために文書化という前提を置かれたのかもしれない

その通りである。「技術的思想」であること=「一定の課題を解決する具体的手段であって、反復して実施可能なもの」であることについて議論の余地がないように、文書化を前提とした。

ところで田中先生は3月24日の投稿で、先使用者は「塗料にD成分が0.02質量%含まれることは認識していなかった。」と書かれており、先使用者がなした発明(すなわち製造方法の工程)に対する認識の要否ではなく、弁理士会の第20回公開フォーラムでも話題になったように、「D成分の含有量」(クレームの発明特定事項の一つ)についての認識の要否に焦点があてられている。しかし私としては、それを認識していたか否かは、クレームの発明とは関係がないと言いたい。

「認識の要否に焦点があてられている」というのは、誤解である(私の記述が悪かったのであろうが)。
被疑侵害者の認識に拘わらず、被疑侵害者は、被疑侵害者が「発明」した製法により作られた塗料、すなわち、被疑侵害者が「発明」した製法により作られた《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》自体も「発明」し、その発明の実施である事業を、特許権Xの特許出願の際現にしていた、といえる。」と書いたように、私も、認識と無関係に、事実として「D成分が0.02質量%」が含まれるならば、それで《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》との発明がなされた*3、と判断すべきだと考える。

なおFubuki先生は、79条に「知らないで自ら『その発明』をし」と書いてあることを指摘されており、これもよく問題にされることではあるが、この特許発明は、「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が安定・継続的に0.01~0.05質量%でありさえすれば、それを認識していようがいまいが、管理していようがいまいが、そんなことは関係がない、塗料。」という発明であって、先使用者はまさにそういう発明を実施している(実施している以上、完成または知得している)のだから、なんら問題はない、というのが私の立場だ。

上記は私の記事に対するものではないが、私も『そーとく日記』と同様の考えである。
私の先の記事で「この「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」という「発明」には、《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》という「発明」、すなわち被疑侵害者がなした「発明」も含まれる。」と書いたように(強調は今般追加)、上記ケース2及び3では、被疑侵害者がその発明(=特許出願に係る発明)を独自になしているのだから、79条の「知らないで自ら『その発明』をし」という要件を問題なく充足している、と私は考えている。
念のために述べると、これらケースにおいて、被疑侵害者がなした発明は、特許発明の“一部”のみではある。しかし、先の記事で最二小判昭和61年10月3日(昭和61年(オ)第454号) 民集40巻6号1068頁を引用して述べたように、被疑侵害者のなした「発明」が特許発明の一部にしか当たらない場合も(その範囲では)先使用権が認められることは、条文との齟齬を来さない。

蛇足を加えると、クレーム制度は(保護を求める)技術的思想をクレームとして表現することを要求する制度であるから、「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」というクレームは、技術的思想そのものとして捉えるべきである。したがって、「このクレームの発明は、「D成分の含有量が0.01~0.05質量%であることの認識」などということは関係がない発明」という『そーとく日記』の見解は妥当である。

とにもかくにも、「私も先使用権の成立性について、3回くらいに分けて書いてみたい。」と述べる『そーとく日記』に、今後も期待したい。

2024-03-26追記ここまで。

更新履歴

  • 2024-03-24 公開
  • 2024-03-26 『そーとく日記』2024年03月26日記事をふまえ追記

*1:特許出願を行なった場合であって、その出願公開が特許権Xの出願前になされたときは、特許権Xに新規性違反による無効理由があることはもちろん、その出願公開が特許権Xの出願後になされたときでも、特許権Xは29条の2違反による無効理由がある。

*2:被疑侵害者が「発明」した製法以外で作られた《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》についてまで、先使用権が認められるか否かは、実施形式の変更の文脈で検討すべきものと考える。

*3:より正確に言えば、その製法の発明の完成と同時に、その塗料自体についての発明(物質発明)もなされた。

先使用権についての一考

はじめに

想特一三『そーとく日記』2023年09月07日記事によれば、2023年3月3日に開かれた、弁理士会第20回公開フォーラム『先使用権 -主要論点 大激論』のパネルディスカッションにおいて、次の設例について、議論されたという。

「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」 という特許発明があり、D成分は微量で A成分+B成分+C成分を安定化させることが発明の詳細な記載に開示されているとして、その出願前から被疑侵害者が成分A+B+Cを含む塗料を製造していたが、実はD成分が偶然0.02質量%混入しており、被疑侵害者はそのことを知らなかった場合に先使用権は成立するか

そして、パネラーの多くは、この設例において先使用権は成立しない、と述べたようである。

これは、私にとって、意外な結果であった。

私は、『そーとく日記』と同じく、先使用権が成立すると考える*1。その理由を、以下に記す。

被疑侵害者は「発明」をなしたか

特許法79条は、「特許出願に係る発明の内容を知らないで自らその発明をし……特許出願の際現に日本国内においてその発明の実施である事業をしている者又はその事業の準備をしている者」が先使用権の対象者である、と規定している。

そこで、本設例で問題となるのは、第一に、被疑侵害者が「発明」をなしたか、である。

特許法において、「発明」とは、「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」(2条1項)とされている。そして、「技術的思想」とは、一定の課題を解決する具体的手段であって、反復して実施可能なもの、と解されている*2

設例によれば、被疑侵害者は、《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》を製造している。事業のためにこの塗料を製造しているのであろうから、当然、被疑侵害者製品は、反復して実施(生産)可能なものであろう。また、被疑侵害者製品は、<A成分, B成分, C成分>を含む塗料を製造するという課題を解決している。したがって、被疑侵害者は、《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》という「発明」をなした、と判断できる。

この判断において、被疑侵害者の主観、すなわち、被疑侵害者はD成分の存在を認識していないことや、被疑侵害者は課題(A成分・B成分・C成分のみでは安定化しないこと等)を認識していないことを、考慮に入れる必要はない。「発明」の定義上、現実に、反復して実施可能な具体的課題手段を見出していれば、それだけで「発明」をした、と言える*3

「特許出願に係る発明」とは何か

第二に、問題となるのは、被疑侵害者がなした「発明」が、79条の「その発明」=「特許出願に係る発明」であるか、である。

設例において「特許出願に係る発明」とは何か。その一つは、クレームそのものである「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」であろう。

もっとも、この「A成分, B成分, C成分 及び D成分 を含む塗料であって、D成分の含有量が0.01~0.05質量%である、塗料。」という「発明」には、《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》という「発明」、すなわち被疑侵害者がなした「発明」も含まれる。

したがって、被疑侵害者がなした「発明」は、「特許出願に係る発明」の一部である、と言える。

なお、最二小判昭和61年10月3日(昭和61年(オ)第454号) 民集40巻6号1068頁も、「実施形式に具現された発明が特許発明の一部にしか相当しないときは、先使用権の効力は当該特許発明の当該一部にしか及ばない」(強調引用者)と述べ、被疑侵害者のなした「発明」が特許発明の一部にしか当たらない場合も、(その範囲では)先使用権が認められる、と述べている。

結論

以上により、設例において、少なくとも《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》の範囲では先使用権が認められる、と考える。

更新履歴

  • 2024-03-20 公開

*1:私は、そのパネルディスカッションを見てはいないし、その模様を記した別冊パテントの記事も(まだ公開されていないため)読んでいないので、今後、考えが変わりうることを、予め言い訳しておく。

*2:例えば、中山信弘『特許法〔第5版〕』(2023,弘文堂)115頁。

*3:なお、被疑侵害者製品は、特許出願可能である。実務において、発明者が「発明」と気づいていないものを、知財部門や弁理士が見出し、特許出願することは多い。その出願明細書には、D成分について言及がないかも知れないが、被疑侵害者が行なっている製造方法が記載されているならば、結果として、《A成分, B成分, C成分 及び D成分を含み、D成分が0.02質量%の塗料》の製造方法が記載されていることになる。

製法発明につき、104条を適用して、製法を特定しない物に差止めを認めた事案 ― 知財高判令和5年12月27日(令和4年(ネ)第10055号)

はじめに

本件判決 知財高判令和5年12月27日(令和4年(ネ)第10055号)は、構成要件充足性判断や102条2項の損害額算定に関する判示にも興味深い点があるが、本稿では、別の点について述べたい。

以下、「雑感」の項を除き、判決の引用である*1

なお、本件の原判決(東京地判令和4年4月8日(平成30年(ワ)第36232号))は、裁判所Webページに掲載されておらず、私は原判決の内容を把握しないまま、本稿を書いていることをお断りしておく。

本件発明(本件特許権の請求項5に係る発明)

*2 特定加熱食肉製品をスライスする工程と、

B スライスされた特定加熱食肉製品における還元型ミオグロビンをオキシミオグロビンに酸素化する工程と、

C 当該酸素化する工程の後、炭酸ガス及び/又は窒素ガスによるガス置換をすることなく、スライスされた特定加熱食肉製品を非鉄系脱酸素材とともにガスバリア性を有する包材に密封する工程とを含み、

D 上記スライスされた上記特定加熱食肉製品は、ガスバリア性を有する包材に密封された状態、且つ、当該包材内の酸素濃度が検出限界以下の条件下で、全ミオグロビン量を100%としたときにオキシミオグロビンが12%以上、メトミオグロビンが50%未満、還元型ミオグロビンが34%以上となる割合(以下『本件ミオグロビン割合』といい、3種のミオグロビンが占める割合を『ミオグロビン割合』という。)*3となっていること

E (構成要件A~D)*4を特徴とする特定加熱食肉製品の製造方法であって、

F 特定加熱食肉製品がローストビーフであることを特徴とする特定加熱食肉製品の製造方法。

経緯

本件は、原審において、発明の名称を「特定加熱食肉製品、特定加熱食肉製品の製造方法及び特定加熱食肉製品の保存方法」とする特許権(特許第5192595号。以下「本件特許権」といい、その特許を「本件特許」という。……)を有する控訴人シンコウフーズから本件特許の独占的通常実施権を付与された控訴人スターゼンが、被控訴人が製造、販売している原判決別紙被控訴人各製品目録記載のローストビーフ(以下、同目録記載1の製品を「被控訴人製品1」、同目録記載2の製品を「被控訴人製品2」、同目録記載3の製品を「被控訴人製品3」といい、これらを総称して「被控訴人各製品」という。)が同特許権の請求項1の発明に係る特許発明の技術的範囲に属するとして、被控訴人に対し、特許法100条1項、2項に基づき、同特許権に係る方法で製造される被控訴人各製品の製造、販売の差止め及び廃棄を求めるとともに、民法709条及び特許法102条2項に基づき、……特許権侵害の損害賠償として……円及び……遅延損害金を請求する事案である。

原審が、被控訴人各製品の製造方法(被控訴人方法)は本件特許の請求項1に係る発明の各構成要件を基本的に充足するものの、同発明に係る特許は……特許無効審判により無効とされるべき事由があるとして、控訴人らの請求をいずれも棄却したところ、控訴人らがその取消しを求めて本件控訴を提起した。

控訴人らは、当審において、本件特許の請求項5の発明に係る特許に基づく請求を追加する訴えの変更をし……た。

主文

1 原判決を取り消す。

2 被控訴人は、原判決別紙被控訴人各製品目録記載の各製品を製造、販売してはならない。

3 被控訴人は、前項の各製品を廃棄せよ。

4 被控訴人は、原判決別紙被控訴人方法目録記載の各方法を使用してはならない。

5 被控訴人は、控訴人スターゼンに対し、……金員を支払え。

[引用者注:主文につき以下略]

構成要件充足性

本件発明について(原判決第3の1(原判決27頁20行目ないし同39頁18行目))、被控訴人各製品は、構成要件B(……)を充足するか(争点1-1)について(原判決第3の2(……))、被控訴人各製品は、構成要件C(……)を充足するか(争点1-2)について(原判決第3の3(……))、被控訴人各製品は、構成要件D(……)を充足するか(争点1-3)について(原判決第3の4(……))……は、当審における当事者の主張も踏まえ、次のとおり補正するほかは、原判決の記載を引用する。

……

当審における争点1についての当事者の主な補充主張に対する判断は、以下のとおりである。

……被控訴人は……被控訴人各製品は構成要件Bを充足しない旨を主張する。……被控訴人方法が構成要件Bを充足するかを検討すると、……空気下で行われる②から⑥の工程において、密封包装が完了するまで2分30秒程度であることが認められるところ……前記「2分30秒程度」空気下に曝す工程は、酸素化の工程に必要な処理時間である「数分」に該当し、「酸素化する工程」の条件を満たすものと認められるから、構成要件Bを充足するということができる。……したがって、被控訴人の上記主張は採用することができない。

……被控訴人は……被控訴人各製品は構成要件Cを充足しない旨を主張する。……したがって、被控訴人の上記主張は採用することができない。

……被控訴人は……被控訴人各製品は構成要件Dを充足しない旨を主張する。……したがって、被控訴人の上記主張は採用することができない。

特許無効性の判断

(以下は、判決文からの引用ではなく、知財高裁Webページに掲載された「要旨」からの引用。)

本件特許は特許無効審判により無効にされるべきか(争点2)について、無効理由1(公知発明(鎌倉山パストラミビーフ)に基づく進歩性欠如)(争点2-1)、無効理由2(公知発明(DCSローストビーフ)に基づく進歩性欠如)(争点2-2)、無効理由3(乙174(特公昭59-15014号公報)に基づく進歩性欠如)(争点2-3)、無効理由4(乙175(特開平9-172949号公報)に基づく進歩性欠如)(争点2-4)、無効理由5(乙176(特公昭58-29069号公報)に基づく進歩性欠如)(争点2-5)、無効理由6(明確性要件違反)(争点2-6)、無効理由7(実施可能要件違反)(争点2-7)、無効理由8(サポート要件違反)(争点2-8)はいずれも認められない。

(「要旨」からの引用はここまで。)

差止めの対象

被控訴人は、補正の上で引用した原判決第2の4(2)のとおり、生産方法を特定しない請求の趣旨は過剰な差止めを求めるものであり、又、被控訴人各製品は特許法104条の推定を受けない旨を主張する。

しかし、これまで検討したとおり、本件発明に係る方法により生産された物が本件特許の出願前に公然知られていた事実は認めることができないから、被控訴人各製品は、特許法104条により、本件発明の方法により生産された物と推定される。

そうすると、既に検討したとおり、被控訴人方法により製造された被控訴人各製品は本件発明の構成要件を全て充足するから、被控訴人に対し、本件発明の特許に係る方法の使用の差止め(主文第4項)のほか、被控訴人各製品につき、その製造及び販売の差止め(主文第2項)を命ずることができるとともに、同法100条2項に定める侵害の行為により生じた物として、その廃棄(主文第3項)を命ずることができる。

雑感

まず、些事かも知れないが、本判決における、不正確な用語法を指摘したい。

ここで、本件発明は、物を生産する方法の発明である。したがって、構成要件充足性を判断する対象は、「物」ではなく、「方法」のはずである。

すなわち、物を生産する方法の(特許)発明については、被疑侵害者の行なった「方法」について特許発明の構成要件充足性を見て、その「方法」が特許発明の技術的範囲(70条1項)に属するか否かを、まず判断する。そして、その「方法」が特許発明の技術的範囲に属すると判断された場合に、当該「方法」の使用行為のみならず、その「方法」により生産した「物」の使用等も、特許発明の「実施」行為となる(2条3項3号)。

にも拘わらず、本判決は、「被控訴人各製品は、構成要件B(……)を充足するか」(強調は引用者;以下同)等と、被控訴人各製品(=「物」)について構成要件充足性を判断しているかのような記載が目立つ。「被控訴人方法により製造された被控訴人各製品は本件発明の構成要件を全て充足する」との記載もあるが、これも、特許法の条文に照らし正しい表現とは言えないだろう。

一方で、本判決には「被控訴人方法が構成要件Bを充足するか」といった適切な表現もあることから、裁判所は、不正確なことを理解しつつ、“便宜的”な表現として(ただし、そのことについて断らず)「製品は、構成要件B(……)を充足するか」等と書いているのかも知れないが、裁判所がそのような判決文を作成することが適切なのか、疑問がある。

なお、本判決と同裁判体により同日に言い渡された令和4年(ネ)第10066号事件判決(以下、別訴事件判決)は、本判決と同一の特許発明に係る特許権の侵害が問題となり、被疑侵害者(被控訴人)も同一で、被疑侵害製品は(本判決とは)「内容量の異なるスライスしたローストビーフ製品」である事案であるが、別訴事件判決では正しく「被控訴人方法は、構成要件B(……)を充足するか」等と判示されている。

さて、以上は前置きで、ここから、本稿で特に述べたいことを記す。それは、上記「差止めの対象」項で引用した判示についてである。以下、その判示を再引用しつつ、愚見を述べる。

被控訴人は、補正の上で引用した原判決第2の4(2)のとおり、生産方法を特定しない請求の趣旨は過剰な差止めを求めるものであり、又、被控訴人各製品は特許法104条の推定を受けない旨を主張する。

原告=控訴人(ら)は、「原判決別紙被控訴人各製品目録記載」の各製品の製造等の差止めを請求している。「原判決別紙被控訴人各製品目録記載」の内容は不明であるが、おそらく被控訴人が製造販売しているローストビーフの商品名が記載されているのみで、生産方法についての言及はないであろう。そこで、被控訴人(被疑侵害者)は過剰差止めと主張している。

物を生産する方法の発明につき、生産方法を特定せず物のみを特定して、差止めが認められるか、というのは古くから論じられてきた。そして、104条の適用があれば、物のみの特定が認められるという見解もある*5。上記の被控訴人主張は、これを受けたものであろう。

104条の規定を挙げておこう:

第104条 物を生産する方法の発明について特許がされている場合において、その物が特許出願前に日本国内において公然知られた物でないときは、その物と同一の物は、その方法により生産したものと推定する。

この規定は、化学物質自体の特許保護が認められなかった時代は、物質発明の保護を補完するものとして重要な意味があったものの、物質特許が認められた現在においては、その合理性が疑問視されている*6

本判決の再引用に戻る:

しかし、これまで検討したとおり、本件発明に係る方法により生産された物が本件特許の出願前に公然知られていた事実は認めることができないから、被控訴人各製品は、特許法104条により、本件発明の方法により生産された物と推定される。

まず「これまで検討したとおり、本件発明に係る方法により生産された物が本件特許の出願前に公然知られていた事実は認めることができない」の、「これまで検討」というのは何を指すのか不明である。たしかに、本判決は、本件発明すなわち生産方法について、(被疑侵害者の挙げた)公知発明から進歩性欠如しているとは言えない、とは判断している。それはあくまでも「方法」について進歩性を判断したに過ぎず、「方法により生産されたが本件特許の出願前に公然知られていた」を判断したわけではない。生産方法は新規であっても、その結果物は新規ではないことは、いくらでもあり得る。

さらによく分からないのは、「被控訴人各製品は、特許法104条により、本件発明の方法により生産された物と推定される。」との判示である。

先述した用語法の問題はあるにしても、判決ではこれまで、被控訴人の行なった「方法」の特許発明の構成要件充足性を判断してきたはずである。そのことは、既に引用した「被控訴人方法が構成要件Bを充足するかを検討すると、……空気下で行われる②から⑥の工程において、密封包装が完了するまで2分30秒程度であることが認められるところ……前記「2分30秒程度」空気下に曝す工程は、酸素化の工程に必要な処理時間である「数分」に該当し、「酸素化する工程」の条件を満たすものと認められるから、構成要件Bを充足するということができる」との判示からも分かる。つまり、これまでの検討から、104条による「推定」を用いることなく、「被控訴人各製品」は「本件発明の方法により生産された物」と判断されたはずである。

このことは、上述した別訴事件判決からも裏付けられる。この別訴事件では、差止請求はなされておらず、損害賠償請求しかなされていなかったところ、104条の適用なく、(本判決とは内容量の異なるスライスしたローストビーフ製品である)「被控訴人製品」の販売について損害賠償請求が認められた。

おそらく、問題は、次の点にある。

「被控訴人各製品」は次の2種類に分かれるのだ。一つは〈既に作られた製品〉、もう一つは〈将来作られる(であろう)製品〉、である。

そして、〈既に作られた製品〉は特許方法で生産された、と裁判所は判断した(判断できた)。他方、〈将来作られる(であろう)製品〉は、(名称は〈既に作られた製品〉と同じだが)生産方法が未確定なので、特許方法で生産されたと判断することはできない。しかし、〈将来作られる(であろう)製品〉を差止の対象としなければならない。

この問題を解決するために、裁判所は、被控訴人の主張もあって、104条を利用した、ということなのだろう。

しかし、上述した104条の合理性への疑問を踏まえると、本件において、104条の利用が適切な解決法であったのか、疑問がある*7

ところで、「雑感」の冒頭、用語法の誤りを指摘した。しかし、これは単なる用語法の誤りというよりも、「被控訴人各製品」という一つの用語で、〈既に作られた製品〉と〈将来作られる(であろう)製品〉との両者を扱うことになった結果、裁判所(あるいは当事者も含めてかも知れない)が混乱したことを示すものなのかも知れない。差止請求のなされなかった別訴事件判決では、正しい用語法が用いられていることは、これを示唆しているようにも感じられる。

更新履歴

  • 2024-02-18 公開

*1:ただし、項名は私によるものであり、また、後述するように「特許無効性の判断」の内容は「要旨」からの引用である。

*2:引用者注:「A」などの英字は判決で付されたもので、特許請求の範囲に記載はない。

*3:引用者注:「(以下……という。)」は判決で付されたもので、特許請求の範囲に記載はない。

*4:引用者注:「(構成要件A~D)」は判決で付されたもので、特許請求の範囲に記載はない。

*5:例えば、飯村敏明「侵害訴訟の訴訟物と請求の趣旨」西田美昭ほか編『民事弁護と裁判実務 8 知的財産権』(1998,ぎょうせい)239頁以下。

*6:近時の論考として、吉田広志「特許法104条の生産方法の推定に関する現代的解釈」パテント76巻1号(2023)90頁、前田健「生産方法の推定規定の現代的意義」清水節先生古稀記念『多様化する知的財産権訴訟の未来へ』(2023,日本加除出版)437頁。

*7:なお、田村善之「特許権侵害に対する差止め」判例タイムズ1062号(2001)74頁は「104条の推定が適用される場合に限り方法Mによる特定を要しないとする見解もあるが……,やや厳格に過ぎるようにおもわれる」と述べる。