特許法の八衢

Bruce Schneier『ハッキング思考』

セキュリティの専門家であるブルース・シュナイアー(Bruce Schneier)の最新著書の邦訳(翻訳:高橋聡)、『ハッキング思考 強者はいかにしてルールを歪めるのか、それを正すにはどうしたらいいのか』(2023,日経BP)*1を読んだ。

「ハッキング」という書名から、コンピュータに関する話題のみを扱ったものに思われるかも知れないが、出版社による紹介ページの末尾にある、【目次】を見れば分かるとおり、本書は、コンピュータのみならず、法や政治を含む幅広い分野を対象としている。

その一部を、批評のために、引用する*2。本書において「ハック」とは、「システムの規則に従いながらもその意図をくじく技術」と定義されている。

コモン・ローとは、判例という形で司法上の判断をもとに成り立っている法である。立法府によって可決される成文法とも、政府各機関によって制定される規制法とも違う。コモン・ローは、成文法より柔軟性に富んでいる。時間がたっても一貫性を保つが、裁判官の判断によって進化することもできる。過去の判例を再適用したり、判例との類似性に基づいて判定したりすることもあれば、新しい状況に合わせて過去の判例の形を変えて応用することもあるからだ。基本的には、合法と確定された、つまり今後の判例となる一連のハックが、進化になっていく。

特許法を例に考えてみる。特許法は制定法に基づいているが、細部の大部分は判例に基づく規則で成り立っている。特許は億単位の価値をもつことがあり、訴訟も日常茶飯事だ。特許には大金がかかっているので、システムのハックは後を絶たない。ひとつだけ、特許の差止を例にあげよう。特許権者が特許を侵害されたとき、裁判所で最終的な判決が出るまで、ただちに差止を請求して、その侵害を止めることができるという考え方である。2006年まで、差止請求は簡単だった。〔略〕

差止請求のハックについては、テクノロジーおよびオンラインオークション会社であるメルクエクスチェンジ(MercExchange)が、同じオークションサイトのイーベイを訴えたときに判定が下されている。〔略〕連邦最高裁判所は2006年にこれを取り上げ、特許差止請求に関する規則を改めて、この脆弱性にパッチを当てた。差止が妥当かどうかを判定する際には、これまでより厳格に4つの要件の立証を適用するよう、各裁判所に命じたのである*3

法が新たな環境、新たな展開、新たな技術に適応していく過程はハッキングである。法律の専門家は誰ひとりとしてハッキングとは呼ばないが、基本的には間違いなくハッキングだ。

上記は、コモン・ローについて述べたものだが、判例による「進化」は、日本法制にも当てはまるものだろう。

日本法制のうち特許法領域でいえば、構成要素の一部でも国外にあれば日本特許権の侵害を免れられるという「ハック」に対し、「パッチ」を施した知財高大判令和5年5月26日(令和4年(ネ)第10046号)[コメント配信システム]が記憶に新しい*4

もっとも、上記引用のなかで、理解しがたい点もある。次の文である:

特許権者が特許を侵害されたとき、裁判所で最終的な判決が出るまで、ただちに差止を請求して、その侵害を止めることができるという考え方である。

「裁判所で最終的な判決が出るまで、ただちに差止を請求して、その侵害を止めることができる」とは、どういうことだろうか? 一般的な「差止」、すなわち終局的差止命令(permanent injunction)は、判決により初めて出されるはずである。

そこで、まず、邦訳に誤りがあるのではないかと思い、原著*5(のKindle版)を確認したところ、この文の原文は以下のものであった:

The idea with patent injunctions is that someone whose patent is being infringed on can obtain a quick injunction preventing that infringement until the court issues a final ruling.

すなわち、邦訳に誤りはない(訳者の高橋聡さん、疑って申し訳ありませんでした……)。

であれば、「裁判所で最終的な判決が出るまで、ただちに差止を請求して、その侵害を止めることができる」の「差止」とは、暫定的差止命令(preliminary injunction)のことなのだろうか? しかし、そうすると、eBay連邦最判の話とつながらない気がする。あの最判は終局的差止命令についてのものだからである。

こうなったら、この文の「差止」が、終局的差止命令を意味するのか、それとも暫定的差止命令を意味するのか、著者本人に訊くしかない!

幸い、著者のメールアドレスは、公開されている。でも、多忙だろうし、凄まじい数のメールを受け取ってもいるだろうから、返信はきっと来ないだろうな。そう思いながら、著者へ質問のメールを出した。

返信はすぐに来た!!

大要*6「憶えていない。ただ、暫定的差止命令を意味していたのだと思う」との回答であった……。

しかし、暫定的差止命令は、eBay連邦最判の前でも、(本書の上記引用部分の認識と異なり)簡単に認められるものではなかったように思われる*7

ただし、上記点に拘わらず、本書は、興味深く示唆に富む記述に溢れたものであり、一読する価値があると断言できる。

更新履歴

  • 2024-01-07 公開

*1:原書の出版が2023年2月・邦訳の出版が2023年10月と、原書から間を開けずに邦訳が出版されたことに感謝したい。

*2:33章「コモン・ローをめぐるハッキング」より。

*3:引用者注:eBay Inc. v. MercExchange, L.L.C., 547 U.S. 388 (2006).

*4:知財高裁判決を「判例」と称してよいかは、さておく。

*5:"A Hacker’s Mind How the Powerful Bend Society’s Rules, and How to Bend them Back”

*6:短い返信だったので、「大要」というより、ほぼそのままであるが。

*7:例えば、Amazon.com, Inc. v. Barnesandnoble.com, Inc., 239 F.3d 1343 (Fed. Cir. 2001)において、CAFCは、連邦地裁の出した暫定的差止命令を取り消した(vacate)。